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従順による和解?エレン・ホワイトの物議を醸した発言を検証する!Part1

  • 執筆者の写真: hosanaministry
    hosanaministry
  • 4月26日
  • 読了時間: 7分

更新日:4月27日




フランシスコ教皇がなくなって、いろんな憶測が飛び交っています。私はあまりそれには触れたくありません。どうも、裏がありそうでことの成り行きをみていきたいと思います。そのほか、SDA世界総会の学校関係のニュースもありましたが、1888年の世界総会の時からすでに総会は神に背いていました。ホワイト姉妹の死以後、益々キリストなしの教会、現代も真理も説教されなくなった今、彼らの資金は枯渇し、バビロンに従わなければ組織も各大学もやっていけなくなっている状態。日本の状況はもっと酷いのでは?と考えざるを得ません。お金がないなら、教団、学校、病院、続けることができません。土曜日安息日も守れなくなって、ある日突然日曜日礼拝になります。そうなると、信徒たちは、獣の刻印ですね。


牧師に魂をあずけてしまっている、何も感じない、何も考えない、何も学ばない教会員の行く末を考えるなら、気の毒でしかたありません。私たちのような独立伝道している兄弟姉妹たちの言葉を聞く耳も持っていないので、祈ることしか残っていません。目覚められて聖書と証のふみ、ホサナミニストリーなどから学んですぐにサバイバルの五つの鍵を行動に移していただきたいです‼️ ノアの箱舟の扉が閉じる前に、こちらにご連絡いただければ、ご一緒に考えることができます。今、準備しなければ、刻一刻と時が迫っています‼️ 迷っている方は1日も早くご連絡ください。主のお導きを祈ります。


さて、今日のブログは、クリスチャンの根幹とも言える神との和解について。これについてはいろんな学者の注解や批判がありますが、案外わかっているようでわかっていないものです。学んだことをシェアしたいと思います。


上記のホワイト姉妹の言葉の中で問題は何でしょうか?


*一つ目の和解の学びは、「律法への従順」(後半は「悔い改め」です。)


教会への証4巻 25章


堕落した生活によって魂の中の神の像を汚してしまった人は、単なる人間的な努力だけでは、自らを根本的に変えることはできません。福音の教えを受け入れ、神の律法への従順とイエス・キリストへの信仰を通して神と和解しなければなりません。それ以降、彼の人生は新たな原則によって導かれなければなりません。悔い改め、信仰、そして善行を通して、彼は義なる人格を完成させ、キリストの功績によって神の子としての特権を主張することができるのです。


この短い文章が何を意味し、聖書的にはどんなことであるか、理解する必要があるでしょう。


参考聖句

ローマ3:28 わたしたちは、こう思う。人がとされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである。


ローマ5:1、10

このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている。

10 もし、わたしたちが敵であった時でさえ、御子の死によって神との和解を受けたとすれば、和解を受けている今は、なおさら、彼のいのちによって救われるであろう。


聖書は明らかに義認とは和解と同義語であり、神によって義とされ、信仰によって神と和解し、行いとは関係がありません。

行いは明らかに救いから生じますが神と和解しているあけではありません。

律法への従順を通して神と和解しているのです。


ここが問題となる点です。


そして、彼女が「悔い改め、信仰、そして善行を通して」と書いています。


ローマ5章の聖句でパウロが言っている意味は、ローマ4章にもどって、

ローマ4:1

それでは、肉によるわたしたちの先祖アブラハムの場合については、なんと言ったらよいか。


では、興味深いことをお見せしましょう。1節には「私たちの父アブラハムが肉に関して何を見つけたのか、私たちは何と言うべきでしょうか?」とあります。アブラハムは何を見つけたのでしょうか? もしアブラハムが行いによって義とされたなら、彼はそれについて栄光を抱くべきでしょう。しかし、神の御前ではそうではありません。しかし、聖書には「アブラハムは神を信じ、それが彼の義とみなされた」。


創世記を見てみます。

創世記17章で神がアブラハムに何と言われたか、注目しましょう。

1アブラムの九十九歳の時、主はアブラムに現れて言われた、「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み全き者であれ

2 わたしはあなたと契約を結び、大いにあなたの子孫を増すであろう」。


神の前に、完全な者となれ、と書かれています。それが神がアブラハムに求めておられた彼の人生です。のちに彼の人生を指摘された時、

5 アブラハムがわたしの言葉にしたがってわたしのさとしと、いましめと、さだめと、おきてとを守ったからである」。(創世記26:5)

創世記17:1は、誰が現れて言われたのですか。主でした。さて、聖書を読む時、注意すべきなのは、神が語られる時何かが起こるということです。神が「光あれ」と言われた時何がおこりましたか? 神が語られるたびに創造が起こりました。神の語りの中に原則があります。


神がアブラハムに語られた時は、隣家のタロウさんが語ったのではなく、神ご自身が語られたです。神が語られる度に何かが起こらねばなりません。神が言われたことは何でも起こります。イザヤ書には、「私の言葉は虚しく私のもとに帰らない」(イザヤ55:11)という一節があります。つまり神が何かをするように語られた時、あなたが神の邪魔をせず、神を止めようとせず、自分のやりたいことをしても、神の持つ言葉の意味に焦点を失わなければ、神の言葉は実現するということです。神の言葉は虚しく、神のもとに帰らないという意味です。あなたが望まないなら、実現しません。


神がアブラハムに望まれたことは、神のみ前に歩くことでした。それは彼のなすべき行為でした。それだけでなく、神のみ前に完全であることも求められました。その結果創世記26:5にある通り彼は神の戒めに従ったのです。


しかし、それは彼がしなければならなかったことで、彼から始まったわけではありませんし、アブラハムが始めたわけではありません。アブラハムはただ地球という土地で生活していただけで、ただ自分の人生を生きていたのです。彼の両親は異教徒で、ただそこにいただけでした。


神は彼の中に可能性を見出し、彼に命の言葉を語られた。それが彼の心の中に入り、彼の心を変え、神が彼に命じたことを実行させられたのです。


これが批評家が理解していないことであり、彼らは引用文の文脈を理解していない。

神が何かをするように言われる時、それは心に入り込み、正しく生きるように導く原則を提示しているのです。したがって、確かに従順によって神と和解しなければならないのですが、その従順は、あなたから来るのではなく、神から来るものです。それで起っている和解は、神がその和解を行うことであり、最終的には神が栄光を受けることであり、神が働かれるのです。


パウロがローマ4章で挙げたアブラハムの例の意味です。アブラハムの例を研究すると批評家たちが持ち出そうとする物語よりもはるかに多くのことが含まれていることに気づきます。神が話し、語る時、それは成就するのです。なぜなら、神の言葉自体が創造の力だからです。


聖書がイエスを神の言葉だと言っているのはなぜだと思いますか。なぜイエスを神の言葉だと呼ぶのでしょうか。なぜなら、万物はイエスによって創造されたからです。イエスはまさに神の言葉なのです。創造の場にいたのは神であり、キリストでした。キリストを通して父なる神が言葉を語ることによって、すべてを創造しました。私たちの中に神の言葉がある時、その言葉は何かをします。言葉は語る時、創造します。ですからわたしたちは神の戒めに従順なのです。これらの聖句をよく読むと確かに神の律法に従うべきなのです。しかしそれ自体も神の言葉によって始まるのです。なぜなら、聖書には「すべてのよい賜物、すべての完全な賜物は光の父なる神からくる」と書かれています。


たとえどのような交友関係や地位にあろうとも光の中で、そのように変革します。啓発されたクリスチャンになった人は、以前の性格のレベルを超え、大きな精神的道徳的強さへと昇格するでしょう。罪や犯罪によって堕落した人々は救い主の功績によって、ほんの少し高められるかもしれません。天使よりも低いのです。


ホワイト姉妹は、またもやこれらすべてをイエスの功績によってのみ認めているのです。



二つ目の学びは次回。



アーメン!!

アクセスありがとうございます。

祝福と憐れみがありますように。

















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