

聖霊とは誰か⁉️(2)神ご自身の霊
 聖霊――神の遍在。それは神ご自身の霊です。

hosanaministry
8月12日


聖霊とは誰か⁉️(1)
預言者イザヤは、神が「審判の霊と滅亡の霊とをもって」ご自分の民を不義からきよめられると宣言した。・・・罪にとって、それがどこにみいだされようと、「わたしたちの神は、実に、焼きつくす火である」(ヘブル12:29)。神のみたまは、その力に服するすべての者のうちにあって、罪を焼きつくす。しかしもし人が罪に執着するなら、その人は罪と一体となる。そのとき罪を滅ぼす神の栄光は、当然その人も滅ぼしてしまうのである。ヤコブは、天使と一晩格闘したあとで、「わたしは顔と顔をあわせて神を見たが、なお生きている」と叫んだ(創世記32:30)。ヤコブはエサウに対する行為において大きな罪を犯した。だが彼は悔い改めていた。彼の罪とがはゆるされ、その罪はきよめられた。だから彼は神のこ臨在のあらわれに耐えることができたのである。しかし人が故意に罪を心に宿していながら神の前に出た時、その人はかならず滅ぼされた。キリスト再臨のときに、悪人は主イエスの「口の息をもって」殺され、「来臨の輝きによって」滅ぼされる(Ⅱテサロニケ2:8)。神の栄光の光は、義人にはいのちを与えるが、悪人を滅ぼす

hosanaministry
8月9日


聖所(2)「神よ、あなたの道は聖所にある」
救われる人は皆、中庭から至聖所まで聖所の道を歩かなければならないことに留意することが重要です。悔い改めた人々は(彼らの特別な状況のために)聖所の救いの過程の特定の段階を満たすことができませんが、彼らのためにキリストはすべての義を成就されました(マタイ3:13-15を参照)

hosanaministry
2024年12月15日


魂を安全にし不動にする錨
パウロの目的は、聞く耳を持つ者たちが不動の錨をもって、揺るぎなく最後まで戦いを戦い抜き、天の御国へ行ってくださいというものです。いつまでも乳を飲む赤子ではなく、成熟を目指して進歩してくださいということです。しかし基本は重要です。それをないがしろにしろという意味では決してありません

hosanaministry
2024年12月13日


救われるためにどうすればいいですか?
ペンテコステの時、聖霊が降って使徒たちは力を得ました。ペテロは説教(あなたがたが十字架につけたこのイエスを、神は、主またキリストとしてお立てになった)をし、その説教をきいたユダヤ人たちは、つぎのようにペテロや使徒たちに言ったのです「人々はこれを聞いて、強く心を刺され、ペテロ

hosanaministry
2024年12月6日


エリヤの霊 (2)
前回は、終わりの来る前、神が預言者エリヤを送るという聖句を学びました。エリヤはすでに天にいます。彼は生きたまま天に上げられました。では、現代のエリヤは誰でしょうか? ルカの聖句には、バプテスマのヨハネのことが次のように描かれています。 *ルカ1:17 彼は...

hosanaministry
2024年12月3日


144000人と大いなる叫び、説教より教え!! (1)
終わりの時の預言では大いなる叫びがありますが、そのために144000人が勉強しなければならないテーマ、その叫びのメッセージを伝えるために何を勉強すべきかという主題に取り組まねばならない時です。そして今、神の民は、モーセの歌を歌い始めなければなりません。

hosanaministry
2024年11月29日


(改訂)水と霊のバプテスマ(2)
しかし、今日、神の教会の信徒たちは、すべての霊的成長の源であられる神との強いつながりを持っていなければ、刈り入れの時に備えていることにならないであろう。彼らは絶えずランプの芯を切りそろえて、燃やしていなければ、いざという時に特別の恵みにあずかることができない。 恵みを絶えず新たに

hosanaministry
2024年11月24日


水と聖霊のバプテスマ(3)
私が聖書を正しく読んでいるなら、後の雨の経験は、前の雨とほぼ同じように、神の民が集まって謙虚になり、祈り、違いを脇に置く時と場所に降るでしょう。彼らは小さなグループかもしれませんし、大きなグループかもしれません。使徒行伝 2 章では 120 人がいましたが、全員が一緒にいました。

hosanaministry
2024年11月20日


水と聖霊のバプテスマ(2)
聖霊に満たされることを期待するには、イエスと何らかの重要な関係を持たなければなりません。ペンテコステの日に洗礼を受けたのは異教徒や異邦人ではありませんでした。また、キリストに反対したのはユダヤ人ではありませんでした。むしろ、3年半の間イエスと並んで歩んできた人々でした。彼らはそれ

hosanaministry
2024年11月20日


水と霊のバプテスマ(1)
エゼキエル33:15で主がご自分の民に指示されているように、十字架上の盗人も盗んだものを元に戻さなかった。神は私たちにできることに責任を持たせるが、「ちり 」の限界も認めておられる。物理的に不可能なことは要求されない。盗人が十字架から降りることができたなら、洗礼を受けただろう。

hosanaministry
2024年11月19日
