終わりの日の神の印、聖霊の証印とは❓
- hosanaministry
- 6月7日
- 読了時間: 17分
更新日:6月9日

今日は、神の印について掘り下げた研究記事になっています。ソースは、「アドベンチスト・ディフェンス・リーグ(アドベンチスト防衛連合)」https://youtu.be/-ct5k4S6BGA?si=jzdXi5nn5NrzW6u7
(*このグループはアドベンチストの教理に関して、外部からの反論や批判に弁証するチームです。博士号を持つ牧師たちの集まり。)オリジナルの内容では、外部からの別の解釈に関して弁証したものでしたが、ここでは弁証は省いています。
ちなみに、外部からの反論や批判とは、「神の印とは、単に聖霊のことなのでしょうか?批評家たちはしばしばこの議論を用いて、SDAの印とは安息日であるという理解を反駁しています。SDAの見解を理解するために、このテーマをさらに深く掘り下げてみましょう。」という作者の説明がなされていました。このSDAの意味する「神の印とは安息日」を詳しくしりたいと思い、見解部分のみ、扱っています。
▪️黙示録7章の背景。
では、黙示録7:1から始めます。
「1節 この後、わたしは四人の御使が地の四すみに立っているのを見た。彼らは地の四方の風をひき止めて、地にも海にもすべての木にも、吹きつけないようにしていた。」
まず四人の天使。彼らは、地の四つの風を引き止めています。「風」は地にも海にも木にも吹いてはなりません。文の内容から、歴史上、地球に破壊が起こる予定の時代を表しています。神がその破壊を地上に解き放つよう任命した4人の天使を通して、その破壊の意味として、「風」と呼ばれています。何にも吹いてはならないのです。これは重要です。なぜなら、あとで調べますが、「彼ら」が受けることになる印について語っているからです。これは終わりの日に関連する印、歴史の終わりの時のことを意味しています。
2節 また、もうひとりの御使が、生ける神の印を持って、日の出る方から上って来るのを見た。彼は地と海とをそこなう権威を授かっている四人の御使にむかって、大声で叫んで言った、
生ける神の印を持った天使が登場しました。ある批評家は、神の印は聖霊だという人もいます。今日はそれについては触れません。生ける神の印を持っている天使は、地と海を傷つける権限を与えられた四人の天使に向かって大声で叫びました。さて、まだ文脈が残っています。次の3節に進みましょう。とても重要なことを語っています。
3節 「わたしたちの神の僕らの額に、わたしたちが印をおしてしまうまでは、地と海と木とをそこなってはならない」。
「私たちが印を押すまでは、地も海も木も傷つけてはならない。」と言っていますが、誰に対して印を押しますか。「わたしたちの神のしもべら」ですね。
では、しもべの皆さん、一つ質問があります。しもべになるために、あなたはすでに聖霊を持っている必要はありませんか? 3節には「私たちの神のしもべ」と書かれています。もしあなたが私たちの神のしもべなら、聖霊を持っていますか? 考えてみてください。
論理的に一緒に考えてみましょう。これらの人々は、この印を受ける時点で既に聖霊を受けていると言えるのでしょうか? はい、彼らはすでに聖霊を受けているはずです。
彼らは信者です。キリストを信じた瞬間に聖霊が証印として受けられることを覚えておいてください。エペソ人への手紙 1:13 を見てみます。
*エペソ人への手紙 1:13
13 あなたがたもまた、キリストにあって、真理の言葉、すなわち、あなたがたの救の福音を聞き、また、彼を信じた結果、約束された聖霊の証印をおされたのである。
「あなたがた」はだれを信じましたか? 彼、キリストを信じた結果ですが、真理の言葉、救いの福音を聞いた後、その方を信じました。彼らは実際に聖霊の証印を受けていると言えます。なぜなら、彼らはキリストを信じる者であり、しもべ(黙7:3)だからです。
聖書を調べる時、文脈に従い、そこで見ているものから結論を導き出し、それから聖書が他に何を言っているかを見る、この方法はよいと考えられます。黙示録7章で印を押すのは聖霊ではありませんね。なぜですか?
黙示録7章が起こる頃には、彼らはすでに聖霊によって印を押しているからです。ですから、黙示録7章の証印はもう一つの印なのです。これが、教訓に教訓、規則に規則を重ねて読むときに起こることです。正しい結論を導き出します。聖書には、神の言葉、真理の言葉を正しく分けなさいと書いてあり、それが私たちがここでやろうとしていることなのです。
▪️聖霊の働き、印を押す、証印。
さて、さて、黙示録7章には印を押すことが描かれています。そして、彼らは聖霊によって印されています。ちなみに、それは聖霊だけではありません。聖霊によって印されているとエペソ人への手紙4章にも書かれています。
*エペソ4:30
神の聖霊を悲しませてはいけない。あなたがたは、あがないの日のために、聖霊の証印を受けたのである。
貪欲な者のように聖霊を悲しませないように、聖霊によって、贖いの日まで証印を受けたと書かれています。聖霊は神の証印であるだけでなく、証印を押す者でもあるのです。そしてもちろん、黙示録7章では、聖霊は個人、つまり天使を用いて証印を押しています。聖霊は人々を用いて御言葉を宣べ伝えることができるだけでなく、天使も用いることができるからです。
[@英文では、印を押すことをsealing(シーリング) またはseal(シール)という言葉が用いられています。日本語では、証印と訳されています。封印とも使われていますので、扱いにくい言葉ですが、このブログでは、「証印」と、「印を押す」の二つの言葉を使用していますが同じ意味です。]
聖霊は証印ですが、印を押す者でもあります。しかし、黙示録7章で私たちが見ているのは、もう一つの印があることです。質問させてください。なぜもう一つの印があるのか、なぜ、聖霊に加えてもう一つの印が必要なのか。黙示録7章の文脈を読むと、さらに証印について言及しています。黙示録7章では、聖霊は個人、つまり天使を用いて証印を押印しています。聖霊は人々を用いて御言葉を宣べ伝えることができるだけでなく、天使も用いることができるからです。
黙示録14章の文脈では、黙示録7章で語られている14万4千人について、地上で神の民の間で論争が起こっていることがわかります。
獣の力、獣の像の間には論争があり、彼らは全世界に獣と像を拝ませ、額か右手に刻印を押そうとしています。そしてもう一方の側には神の民がいます。聖書には、黙示録14章12節で、彼らは神の戒めを守り、イエスを信じる者たちであると記されています。では、人々はどのようにしてこの二つの違いを見分けることができるのでしょうか?目に見えてわかる何かが必要です。つまり、違いがすぐにわかるようにしなければなりません。
私は、システムエンジニアがバーコードやタトゥーのようなものを額に文字通り刻む必要があると言っているわけではありません。それが具体的にどう展開するかは誰にも分かりません。私たちはその時が来るまで待つことになりますが、現時点では、神様の戒めを守る人々であることを、世界の人々がわかるような何かが必要です。
彼らは獣に従わず、獣の像にひれ伏さず、獣の刻印を受けていません。それはどのように見られるか、つまり、彼らの行動に表れるということです。彼らは聖霊を持っているからではないでしょうか? ガラテヤ人への手紙第5章では、聖霊の実について語っています。愛、喜び、平和、寛容、優しさ、親切、忍耐。これらの人々はそれを持っているのです。
世界は彼らの性格や本質を通じて、他と異なることを理解するようですが、もう一つ重要な点があります。彼らは「律法を守る者」であることです。世界が彼らに偽の神を崇拝させ、神の律法を破らせようとしている中で、これらの個人が神の律法を守り続けていることを世界は目撃しています。
黙示録13章で獣の力がそのように働いている間、彼らは目立つ存在として際立っています。彼らの行動から、それがわかるからです。したがって、彼らは何かもっと必要なものを持っています。聖霊が彼らの中にいて、彼らに信仰に生きるように導いているのです。しかし聖霊はまた、彼らに神の戒めをも守るように導いています。
それが彼らを区別しています。ご自身で確認をお願いします。黙示録14章では、黙示録7章で言及されている14万4千人が再び登場します。
▪️神の律法、戒め、十戒。
黙14:1「なお、わたしが見ていると、見よ、小羊がシオンの山に立っていた。また、十四万四千の人々が小羊と共におり、その額に小羊の名とその父の名とが書かれていた。」
それから、三人の天使のメッセージが伝えられます(黙14:7-11)。そして突然、どこからか、誰なのかは不明ですが、12節で突然「ここに、神の戒めを守り、イエスを信じる信仰を持ちつづける聖徒の忍耐がある」と言います。三人の天使のメッセージが伝えられた後、聖徒たちの忍耐について書かれています。ここには神の戒めを守り、イエスの信仰を持つ人々がいます。残念ながら、多くの批評家はこのカテゴリーに当てはまるだけで、残りの民の一員になる資格がありません。悲しいことですが、私たちはそうありたいのではありません。私たちは神の戒めを守る人々の中にいたいのではないでしょうか。
神の戒めは十戒ではないなどと批評家や他の教派の人々に言われても、信じないでいただきたい。それは文脈に反するからです。文脈には十戒があります。しかし、対照的に、神の戒めに対する直接的な攻撃があります。

この表は、最初の4つの戒めしか書いていませんが、実際には黙示録に全部記されています。
ヨハネの黙示録11章19節で、ヨハネは突然天を見上げ、天が開くのを見ます。そして最初に目にしたのは契約の箱です(「天にある神の聖所が開けて、聖所の中に契約の箱が見えた」)。聖書のヘブル人への手紙には、契約の箱は現実であり、天にあるもの、つまり地上に作られた複製、あるいは型、あるいは逆に地上にあるものは天にあるものの型、あるいは影であると書かれています。
天の聖所は存在します。ヘブライ人への手紙では、それがどのように概説されているかが分かります。ですから、ヨハネが契約の箱を見ているとすれば、それは天のものであり、その箱の中には何が入っていたか、それは地上にあったものの複製であり、地上にあったものの中に何が入っていたか、もちろん私たちはそれが十戒であることは知っています。十戒はすべて黙示録に関係していますが、興味深いことに、最初の4つは他の戒律よりも多く取り上げられています。なぜなら、黙示録13章と14章の主な問題は礼拝だからです。
あなたは誰を崇拝されますか? 獣ですか、真の神ですか? 何が起こっているでしょうか? 黙示録13章で何が起こっているのでしょうか?
さきほどの表の黙示録13章の両側に、獣である竜を崇拝することについて語られている箇所があります。神は他の神を崇拝してはならないと命じられています。また十戒では、獣の像をはじめ、彫像を作ったり、それにひれ伏したりしてはならないと命じています。獣は神の名を冒涜するからです。
先日、ある批評家が「獣の力がそうさせていて、民ではない」と言っているのを耳にしました。文脈からすると、獣の力が民を獣の力に従わせているのは明らかです。誰も同じ例に倣わないとは言いません。しかし、彼らも同じようにするでしょう。次のビデオで、そのことについてご説明できると思います。
さて、十戒にも神の名を尊び敬うようにとあります。そして興味深いことに、黙示録14章では、最初の天使が世界に創造主を礼拝するように呼びかけています。これはほぼ逐語的に、100%ではありませんが、確かに第四戒の安息日で起こっていることと似ています。おわかりでしょうか?
▪️印を押された14万4千人と安息日
黙示録7章に戻ります。黙示録7章の文脈で次に目にするのは、各部族から1万2千人、合計14万4千人のイスラエル人についてです。そして、印をおされた人々の数を聞いたとあります。
*黙示録7:4
「わたしは印をおされた者の数を聞いたが、イスラエルの子らのすべての部族のうち、印をおされた者は十四万四千人であった」。
印をおされた人々の数は、イスラエルの子孫のすべての部族から14万4千人でした。
そして、この部族から1万2千人、あの部族から1万2千人、そしてその後に大群衆が登場します。この大群衆は14万4千人と同じだと言う人もいれば、1万4千人は別の集団、あるいは黙示録14章に概説されている理由による特別な集団だと言う人もいます。
この議論はここでは行いません。皆さんが、何を信じたいかは自由ですが、重要なのは、ここで印が押されているということです。文脈上、確かにイスラエル人について言及し始めています。
イスラエル人についても、ここでは、触れません。私はこれらは霊的なイスラエルだと信じていますが、各部族の概要を示すことは重要です。それぞれの部族を代表する人物、ユダの人物、滅びの人物などの人物の性格がわかるからです。旧約聖書を読むと、これらの人物の性格が表れているように見えます。それぞれの1万2000人は、子羊の血によってこれらの性格を克服しました。彼らはあかしの言葉によって克服したと書かれています。アーメン。さて、興味深いことに、イスラエル人が旧約聖書で持っていたしるしとは何だったのでしょうか。彼らには確かに複数のしるしがありました。旧約聖書でイスラエル人が持っていたしるしの一つは何でしたか? それは 安息日があります。
ですから、言うまでもなく、証印を受けた人々には安息日がありました。ご理解いただけましたでしょうか? 黙示録7章には複数のしるしがあることは理にかなっています。その一つは、律法全体です。聖書にはこうあります。イザヤ書8章には「わたしは、あかしを一つにまとめ、教をわが弟子たちのうちに封じておこう。」とあります。黙示録8章16節だったと思います。それから、出エジプト記12章か13章だったと思いますが、イスラエルの祭りの一つがしるしであることについて書かれています。私の間違いでなければ、それは無酵母パンの祭りだったと思います。つまり、彼らは複数のしるしを持っていたということです。しかし、少なくとも、この章では安息日が少しだけ関わっているのが分かります。
そこからさらに情報を得て、聖書の残りの部分へと広げていきましょう。それでは、黙示録14章を見てみましょう。14章は研究する価値があります。なぜなら、14万4千人について語られているからです。ですから、そこからさらに情報を得ることができます。関連性があるのです。同じ書の別の箇所で、同じ封印された人々の集団について言及されている箇所を見つけているのです。そこからさらに情報を得ることができます。
▪️シナイ山とシオンの山、父の名 (出エジプト記ではシナイ山で、黙示録はシオンの山)
シナイ山とシオンの山の二つの山には、興味深い類似点があります。シオンの山には人々の集団があり、律法があります。そこには安息日があります。安息日は神の律法の一部だからです。彼らはシオンの山に立っていて、神と共にいました。 144,000 人の額には何が書いてありましたか?
*黙14:1
「わたしが見ていると、見よ、小羊がシオンの山に立っていた。また、十四万四千の人々が小羊と共におり、その額に小羊の名とその父の名とが書かれていた。」
小羊の名と父の名前が書いてあります。黙示録7章には、彼らの額に印を押されたと書かれています。「わたしは印をおされた者の数を聞いた」。黙示録14章では、、彼らの額に何が押されたかを語っています。
額には父の名が書かれています。これは意味を成していますか?
そして、「私は天からの声を聞いた。多くの水の声、大雷の声、そして竪琴を奏でるハープ奏者たちの声を聞いた」とあります。ここで重要な類似点に注目してください。先ほど言ったことを思い出してください。両側にシナイ山とシオンの山があります。
両側(上記のリストのこと)に2つの山があり、両側に2つの人々の集団があります。そして両側にはとても興味深いものがあります。雷鳴、大きな雷鳴、その音、多くの水の声。これは出エジプト記20章、21章で読んだことをとても彷彿とさせます。ラッパの音と、出エジプト記には山がまるで火で照らされたかのように煙が立ち込めていると書かれています。
非常に興味深い類似点があります。皆さんに知っていただきたいのは、この重要な類似点です。なぜなら、神の戒めは、この2つの箇所の両方にあることを示しているからです。出エジプト記20章にはシオンの山に関する神の戒めがありますが、黙示録14章にもこの山に関する神の戒めがあります。なぜ私がそれを知っているかというと、三人の天使のメッセージが与えられ、警告が与えられた後の節を見れば、兄弟姉妹の皆さん、彼らは神の戒めを守っている、つまり神の戒めだけで、それ以外は何も守っていない、つまり儀式的な律法を守っていない、ということです。
▪️聖所と律法と安息日
実際のところ、ヨハネが黙示録第 11 章で何を見たのかは、そこに書いてありません。黙示録11:9を見てください。ヨハネが天の神殿が開かれるのを見たとき、彼は旧約聖書の出エジプト記で語られている契約の箱を見ました。「天にある神の聖所が開けて、聖所の中に契約の箱が見えた。また、いなずまと、もろもろの声と、雷鳴と、地震とが起り、大粒の音が降った。」
ヨハネは、契約の箱だけを見ました。私たちはその中身は分かります。なぜなら、それはかつて地上にあった十戒の複製、あるいはその現実だったからです。ですから、兄弟姉妹の皆さん、黙示録14章で私たちが見ているのは、神の十戒と言えるのです。さて、これらの律法の中で4番目はどれでしょうか? 安息日です。
イスラエル人は複数のしるしを持っていました。安息日もその一つでした。しかし、黙示録14章で私たちが見ているのは、これが鍵となる部分です。黙示録14章で私たちが見ているのは、神の十戒が作用しているということです。それは、これらの人々の性格や生き方によって示されています。誰もが、彼らは神の戒めを守り、イエスへの信仰を持っていると分かります。彼らが戒めを守っていることは誰もが分かります。もし彼らが戒めを守っているなら、黙示録14章12節に出てくる人々も安息日の戒めを守っていますね。
彼らはまた、黙示録14章12節の人々も安息日の戒めを守っています。
兄弟姉妹は安息日を守る者たちです。 これで、他のしるしを排除し、無酵母パンの祭りのしるしを排除します。これで、彼らが持っていた他のしるしをすべて排除し、残るしるしは一つだけです。それが何ですか? 安息日のしるしです。
もしそれが理解できなかったなら、 申し訳ありません。もし理解できたなら、その一つを説明するために、 安息日に関する聖句を示しましょう。
出エジプト記31章13節には、このことについて語っている節が3つあります。
イスラエルの人々に告げよ。「まことに、わたしの安息日を守らなければならない。それはわたしとあなたたちとの間のしるしである。」
コリント第二3:6-18は、真のユダヤ人とは実際には誰なのかについて語っています。「文字ではなく、霊的なユダヤ人です」。
私たちは霊的なユダヤ人です。兄弟姉妹の皆さん、イエスを信じる者はキリストの子孫です。あなたはアブラハムの子孫です。
パウロがヨハネの黙示録からガラテヤ人への手紙に書いた約束に従って、子孫であり、聖なる者です。さて、話が逸れましたが、エゼキエル書20章12節には、「わたしはまた彼らに安息日を与えて、わたしと彼らとの間のしるしとした。これは主なるわたしが彼らを聖別したことを、彼らに知らせるためである。」とあります。エゼキエル書20章20節にはこうあります。「わが安息日を聖別せよ。これはわたしとあなたがたとの間のしるしとなって、主なるわたしがあなたがたの神であることを、あなたがたに知らせるためである。」
▪️まとめ。
終わりの日に信者たちの間には、複数のしるしがあることがわかりました。黙示録7章と14章の文脈では、彼らはすでに聖霊を証印として持っています。そして、聖霊は証印者であり、黙示録7章では天使を使って印をおします。これが1つ目の証印です。
彼らは額にもう一つの証印、つまり父の名を押されています。父の名が額に押印されています。
黙示録14章12節をもっと深く掘り下げてみると、彼らは神の戒めを守ると書かれています。私が言っているのは十の戒めです。
ヨハネは契約の箱を見ます。そこに十戒があります。黙示録13章で、黙示録6章以降ずっと神の戒めが攻撃されています。しかし、黙示録14章には、天使が全世界に思い出させるべき4番目の戒律に関して、天と地と海を創造した方を選ぶように。明らかに4番目の戒律を彷彿とさせます。安息日です。
アーメン!!
アクセスありがとうございます。
祝福と憐れみがありますように。
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