従順による和解?エレン・ホワイトの物議を醸した発言を検証する!Part2
- hosanaministry

- 4月27日
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更新日:5月1日

*二つ目の和解の学び。「悔い改め、信仰、善行」(画像はPart1と同じ)

次は悔い改めですが、これも神からきます。(私見:ここをよくわかっていないと真の悔い改めはできない。)悔い改めた人の新しい人生はキリストを通して、新しい原則に支配されなければなりません。私たちの仕事は、悔い改めを通して神の意思に従うこと。
悔い改め、信仰、善行、すべて神からきます。神は義人を完成されるでしょう。キリストの功績によって神の子としての特権が与えられ、義なる品性が完成されるのです。これは聖書に書いてあることです。例えば、聖書のヤコブ書2章で調べてみましょう。
*ヤコブ2:14
14 わたしの兄弟たちよ。ある人が自分には信仰があると称していても、もし行いがなかったら、なんの役に立つか。その信仰は彼を救うことができるか。
行いのない信仰は死んだも同然です。しかし22節では
ヤコブ2:22
22 あなたが知っているとおり、彼においては、信仰が行いと共に働き、その行いによって信仰が全うされ、
ホワイト姉妹が言っている通り、悔い改め、信仰、善行を通して義なる品性を完成させることができるということです。それはキリストの功績による主張であるとも書いています。

次のパラグラフでは、
*1ヨハネ3:2-3
2 愛する者たちよ。わたしたちは今や神の子である。しかし、わたしたちがどうなるのか、まだ明らかではない。彼が現れる時、わたしたちは、自分たちが彼に似るものとなることを知っている。そのまことの御姿を見るからである。3 彼についてこの望みをいだいている者は皆、彼がきよくあられるように、自らをきよくする。
ここが引用されています。彼女が書いているように、事実私たちは、本当に完成は、到達不可能と思っています。しかし彼女は真理の原則を心に受け入れ、大切にすることがそこへ到達させるというのです。それを保証している言葉がヨハネの聖句です。
神の律法という鏡に向き合い、自分の道徳的性格の欠陥を見分け、罪を捨て去り、品位の衣を洗い清める。小羊の血によって、嫉妬、傲慢、悪意、欺瞞、攻撃、罪が心から清められ、キリストの愛を受け入れる者となり、キリストの宗教が精錬し、尊厳を与えるのです。私たちがキリストの姿を見る時、キリストのようになるという希望を抱きます。
たとえどのような交友関係や地位にあろうとも光の中で、そのように変革します。啓発されたクリスチャンになった人は、以前の性格のレベルを超え、大きな精神的道徳的強さへと昇格するでしょう。罪や犯罪によって堕落した人々は救い主の功績によって、ほんの少し高められるかもしれません。天使よりも低いのです。
ホワイト姉妹は、またもやこれらすべてをイエスの功績によってのみ認めているのです。

続けて、罪人について書いていますが、「神の律法に背き続けながら、キリストの救いを無償の恵みとして捉えるように導くことはない」と言っています。何に対して反対しているのでしょうか。イエスの十字架の死を無償の恵みと捉えてはならない、安っぽいものとしてはならない、と諭しているのです。罪人が生き方を変えるのは、たとえ律法に背き続けて生きていても、真理の光が心に輝き、神の要求を完全に理解し、自分の罪の重大さを悟った、その時、生き方を改めると言っています。しかも救い主から力が与えられなければ忠実になり新しい清らかな人生を送ることはできないのです。
このことは、どういうことかというと、これらの文脈すべてが人がキリストを通して何をするか、ということなのです。
恵や信仰をもう少し理解するための聖句があります。皆さんもご存知のヘブル11章です。
*ヘブル11
1さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。
二つの事柄が関係しています。「事がら」「事実」、言い換えると信仰と結びつくのは、実質的なものと明白なもののことです。
5 信仰によって、エノクは死を見ないように天に移された。神がお移しになったので、彼は見えなくなった。彼が移される前に、神に喜ばれた者と、あかしされていたからである。
11 信仰によって、サラもまた、年老いていたが、種を宿す力を与えられた。約束をなさったかたは真実であると、信じていたからである。
13 これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。
17 信仰によって、アブラハムは、試錬を受けたとき、イサクをささげた。すなわち、約束を受けていた彼が、そのひとり子をささげたのである。
20 信仰によって、イサクは、きたるべきことについて、ヤコブとエサウとを祝福した。
21 信仰によって、ヤコブは死のまぎわに、ヨセフの子らをひとりびとり祝福し、そしてそのつえのかしらによりかかって礼拝した。
22 信仰によって、ヨセフはその臨終に、イスラエルの子らの出て行くことを思い、自分の骨のことについてさしずした。
23 信仰によって、モーセの生れたとき、両親は、三か月のあいだ彼を隠した。それは、彼らが子供のうるわしいのを見たからである。彼らはまた、王の命令をも恐れなかった。
24 信仰によって、モーセは、成人したとき、パロの娘の子と言われることを拒み、
上記の三つには「信仰によって」という共通の言葉があります。エノクについては、神に喜ばれたというあかしがあります。彼は神を喜ばせたのです。信仰がなければ神を喜ばせることはできませんし、神も私たちが喜ばせることをしなければ喜ばれません。
信仰によって、何が起こったのでしょうか。サラは子孫を宿す力が与えられました。エノクのあかし、アブラハムはひとり子をささげました。11章に登場する信仰の模範者たちは、彼らの「信仰によって」何かが起こりました。つまり彼らの行いがそこにありました。信仰の応答とも言えます。行いによって救われたとは書かれていません。また従順によって救われたとも書かれていません。
しかし神は、彼らが信仰を持つ理由を与えられました。彼らは素直に信仰を受け入れました。信仰を持った後、何が起こりましたか? イサクは、すべての人を祝福しました。
モーセは、パロの娘の子と言われることを拒みました。すなわち、真の信仰があれば、それは本当に明らかになります。
それから、第三天使のメッセージですべてを要約している聖句があります。下記のガラテヤ書の聖句です。
*ガラテヤ2:20
19 わたしは、神に生きるために、律法によって律法に死んだ。わたしはキリストと共に十字架につけられた。
20 生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである。
この聖句は見逃すことができません。この聖句は、私たちに最大の自信と最大の平安を与えるはずです。なぜなら、サタンの唯一の目的は、私たちの注意をキリストからそらすことであり、私たち自身にとって、キリストの使命は、私たちが持っているすべてのものに基づいているからです。サタンは批評家を用いてあらゆる手段を用い、目の前にある真の使命から私たちをそらそうとしているのです。
真の使命とは、私たちのためにキリストがしてくだったことを通しての完全な和解です。驚いたことには、私たちが学べば学ぶほど、「キリストの功績を通して」というところへ戻ってきます。
上記のガラテヤの聖句で、パウロの言っていることをもう一度読んでください。つまり、
パウロは「私は死んだ。死んだのだ。だから、神の戒めに従おうとすることすらできない。死んでしまったら、何もできない」と言う。でもパウロは「それでも私は生きている」と言っています。では、なぜパウロは死んだのに生きているのですか? 死んだ時、キリストと共に復活したからです。キリストは復活したので、パウロは新しい人になった。ローマ人への手紙6:7〜8には、パウロは新しい人、新しい被造物、すべてのものは過ぎ去った、見よ、すべてのものは新しくなった、と書いています。
パウロは「死んだが、キリストは私の中に生きている。そして、私が今生きている命は、今この瞬間に生きている命だ」と言います。パウロは「今生きている命は、私を愛し、私のために身を捧げてくださった神の子の信仰によって生きている」と書いています。パウロがこれを指摘するのは重要なことなのです。
*ローマ8:1
1こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。
おわかりと思いますが、肉の思いは神の戒めに従うことができません。ローマ8:5を見てみます。
*ローマ8:5
5 なぜなら、肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思うからである。
肉の思いは、戒めを守ることはできません。なぜでしょうか。霊的でないからです。
律法は霊的なものだからです。
*ローマ8:7
7 なぜなら、肉の思いは神に敵するからである。すなわち、それは神の律法に従わず、否、従い得ないのである。
7節でパウロは、肉の思いとは神に敵対するものであり、神の律法に従わず、従うことも、従うこともできない、と述べています。ですから、もし肉の思いが神の律法に従えないなら、つまり、霊的な思いは、肉の思いではできないことを、霊的な思いではできるということです。 肉の思いではできないことを、霊的な思いではできる、ということですが、お分かりでしょうか?
ですから、私たちはキリストと共に十字架につけられなければなりません。そうすれば、新しい人生を送り、新しい人になることができるのです。7章でパウロは、律法は霊的なもので、肉の思いでは霊的な律法を守ることはできない、と述べています。
*ローマ7:12
12 このようなわけで、律法そのものは聖なるものであり、戒めも聖であって、正しく、かつ善なるものである。
ですから、あなたの心は新たにされなければなりません。ローマ人への手紙第12章1ー3節には、心の更新について書かれています。新しくされなければならない、変えられなければならない、あなたの古い人は滅びなければならない、変えられなければならないのです。
*ローマ12:1-3
1兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。
2 あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。
3 わたしは、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりびとりに言う。思うべき限度を越えて思いあがることなく、むしろ、神が各自に分け与えられた信仰の量りにしたがって、慎み深く思うべきである。
私たちは、水に浸されてから水から上がるとき、わたしたちは完全に十字架につけられて死んでおり、水から出ると新しい人になるのではなかったでしょうか。
それは、私たちが新しい人生を生きていることの象徴です。
つまり、霊的な心で生きているとき、神の戒めに従順になれるということです。キリストにおける霊的な新しい人生を生きているとき、私たちは神の戒めに従順になれるのです。なぜなら、私たちは霊的な律法に触れ、それに従うことができる霊的な心を持っているからです。ですから、引用文に戻ります。新しい原則がなければなりません。あなたは新しい人にならなければなりません。それがあなたを神の戒めに従わせるのです。

アーメン!!
アクセスありがとうございます。
祝福と憐れみがありますように。

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