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ホームチャーチ:常に神のご計画

  • 執筆者の写真: hosanaministry
    hosanaministry
  • 8月18日
  • 読了時間: 15分

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使徒行伝に記されている初期キリスト教徒の時代と同様に、家庭教会は常に神の計画の一部でした。宗教的迫害の時代、大規模な教会集会が危険だった時代、信者たちは家庭に集まり、礼拝し、祈り、奉仕し、反対にもかかわらず福音を生き生きと伝え、真理を広めました。


Profit from Prophets(←Webサイト、Youtubeはこちら)のマルコ・コリック氏が、聖書の真理、歴史的な事例、そしてエレン・ホワイト氏の助言を通して、一般信徒が家庭礼拝を受け入れるよう促します。新約聖書の家庭教会モデルが今日でもなお重要である理由、なぜ教皇会議の指導者でさえ家庭教会の重要性を認めているのか、そして最終的な福音の働きがどのように質素な家庭からもたらされるのかを探ります。神の召命に応えて家庭に集まる信者を、背教者や分裂主義者とレッテルを貼るべきではありません。』ーYoutubeの

説明より。


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📖 マルコ・コリッチ(神学修士、Profit from Prophets Ministry)について


マルコ・コリッチは、聖書教師、説教者であり、自立した独立系セブンスデー・アドベンチスト教会のアウトリーチ・ミニストリー「Profit from Prophets」の創設者です。彼は、三天使のメッセージ、黙示録、調査審判、信教の自由、そしてキリストの再臨について、預言の霊に基づいた明確なメッセージを伝えています。マルコの使命は、聖書、エレン・ホワイトの著作、歴史的洞察、そして時事問題を通して、信者が時代の兆しを理解できるよう助け、神の民が揺るぎない決意でキリストの再臨に備えられるよう導くことです。

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📖アウトリーチミニストリーとは、教会やキリスト教団体が、教会に通っていない人々や地域社会に積極的に働きかけ、キリスト教のメッセージを伝え、奉仕活動を行うことです。単に教会に人を集めるだけでなく、地域に出て行って、困っている人々に寄り添い、助けを必要とする人々に手を差し伸べる活動を指します。


より具体的に、アウトリーチミニストリーの例を挙げると、

地域のお祭りへの参加:

教会が屋台を出したり、ゲームを企画したりして、地域住民との交流を図ります。

地域の学校との連携:

教会が学校のイベントに協力したり、ボランティアを派遣したりして、学校教育をサポートします。

高齢者施設への訪問:

教会員が定期的に高齢者施設を訪問し、お話相手になったり、歌を歌ったり、レクリエーションを行ったりします。

生活困窮者への支援:

食料を配布したり、生活相談に乗ったり、必要に応じて住居や仕事を紹介したりします。

外国人への支援:

外国人向けの日本語教室を開いたり、生活相談に乗ったり、地域のイベントに誘ったりして、地域社会への適応をサポートします。


アウトリーチミニストリーは、教会が地域社会の一員として、共に生き、共に成長していくための大切な活動です。(グーグルAIより)

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前置きがまた長くなりました。ご参考にしていただければ、嬉しく思います。

このブログが皆様のお役に立てます様に、またよい学びとなりますように、お導きください。アーメン🙏


さて、ホームチャーチは、タイトルにもある通り、それは常に神の計画の一部でした。

ご存知のように、時の終わりが近づくにつれて、教会の財産や教会堂を所有することはますます難しくなります。そして、神の民はますますホームチャーチへと向かっていくでしょう。


では、気になる次の聖句を調べてみましょう。

*マタイ16:18「そこで、わたしもあなたに言う。あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つことはない。」


イエスはここで、間違いのある人間であるペテロの上に教会を建てるとは言っていません。なぜなら、ペテロはこの後すぐにイエスを三度否認するからです。イエスを三度否認しようとしている人間の上に教会を建てたいとは思わないでしょう。そして後に、ペテロがパウロに叱責される場面が出てきます。ペテロがギリシャ人たちと食事をしているとき、ユダヤ人が入ってくると、彼は立ち上がってユダヤ人たちと一緒に座ります。イエスは、誤りのある人間の上に教会全体を置き、こうして教皇の系譜を築くとは言っていません。聖書にはそう書いてありません。「ペトロス」(ギリシャ語)という言葉は、明らかにペテロという人物の名前です。ペテロという人間の名前です。確かに彼は使徒でしたが、ただの人間でした。


ペテロの上に建てられた教会は、イエス・キリストです。

コリント人への第一の手紙10章4節には、「みな同じ霊の飲み物を飲んだ。すなわち、彼らについてきた霊の岩から飲んだのであるが、この岩はキリストにほかならない。」とあります。このことは、多くの人が混乱している箇所ですので、余談ですが。いずれにしろ、

私たちが知りたいのは「教会」という言葉の意味です。


「教会」という言葉の意味は何でしょうか?「エクレシア」はギリシャ語で「教会」を意味します。これは2つのギリシャ語の合成語です。「E」(から、外、によって)と「calo」(呼ぶ)です。つまり、「エクレシア」とは「召された者たち」です。文字通りの意味です。エクレシア、つまり教会とは、召された者たちのことです。特定の目的のために召された人々、集団、または集会です。


私たちは世人と同様に生きるように召されているのではありません。私たちはキリストのように生きるように召されているのですエクレシアイエスに倣い、イエスのメッセージを語り、広めるために集まった人々です。


では、エクレシア、あるいは教会の原則とは何でしょうか?

これらの人々は召命を受けました。マタイによる福音書16章18節に戻り、後半を見てみましょう。イエスは「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つことはない。」と言われました。このことから、私たちはいくつかの洞察を得ます。

第一に、教会はキリストのものであるということです。イエスは「わたしの教会」と言われました。私たちは教会に属しているので「わたしの教会」と言いますが、教会はキリストに属しています。キリストの教会なのです。ですから、教会はまず第一にキリストのものであるのです。それはキリストの教会なのです。世俗的な企業、世俗的な政府、そして組織と関係を交わして、私たちが譲歩するべきではありません。もし私たちがそうし始めるなら、私たちは不忠実であることを示していることになります。私たちは神の教会に、神に属さないものを結びつけています


それは心に留めておくべきことです。教会はイエス・キリストに属するものです。教会はキリストによって建てられます。私が建てると言われる。人の手で建てられたものではありません。人の創意工夫で建てられたものではありません。人の心が創造したものでもありません。神の心が創造したものです。そして、主は建設者です。主は所有者であり、運営者です。主は教会の所有者であり、建設者です。教会は主の教会です。教会は活動的な信者の集まりです。地獄の門に立ち向かいます。静止した人々の集まりではありません。いわば、自分の殻に閉じこもったり、ただ集まって座っているだけの人たちではありません。彼らは積極的に地獄の門に立ち向かいます。門はそこにあります。安定しています。動かないのです。門は動きません。しかし、人々はその門に立ち向かうために動きます。ですから、イエス・キリストによって設立され、イエス・キリストによって所有され、キリストによって建てられた神の教会もまた教会であり、地獄の門に立ち向かうよう召された民なのです。友よ、地獄の門は私たちの周りに遍在しています。


門は私たちの周りに築かれつつあります。門は高く、強固です。

悪魔の地獄の手先によって徹底的に守られています。しかし、

これらの門は何度も陥落してきました。これが次の点につながります。


教会は拡張主義的です。つまり、教会は建てられ、悪魔の要塞がキリストのために征服されるように。それらがキリストのために征服されるにつれて、教会は建てられ、教会は増加します。教会は拡張主義的な運動です。そして最後に、教会は社会的で社交的です。この聖句を読み解き、深く掘り下げていくと、組織の原則、あるいは教会とは何かという原則について理解できることがたくさんあります。


預言の霊が何と言っているかに注目してください。教会は、人々の救いのために神によって任命された機関です。奉仕のために組織され、その使命は福音を世界に伝えることです。教会の会員、すなわち神によって召し出された者たち、私は暗闇から神の驚くべき光の中に召し出された者たちという言葉を使うべきでしょうが、彼らは神の栄光を現すのです。その通りです。教会はそれ自体で存在するものではありません。教会とは、ただ人々が集まって自分自身を見つめ、交わりを深める集まりではありません。それは、周囲の人々の救いへと導くための運動なのです。


教会は神の砦であり、反逆した世界において神が守っておられる避難所です。初めから、忠実な魂が地上の教会を構成してきました。ここで理解すべきことは、教会、真の教会は忠実な魂によって構成されているということです。忠実な魂も不忠実な魂も、教会の一部ではありません。彼らは教会の記録に載っているかもしれませんし、教会員と交わりを持っているかもしれませんが、忠実とみなされる人々の一部ではなく、したがって、真に教会の一部ではないのです。


これはアドベンチストが本当に理解する必要があることです。

私たちは組織や団体との関わりによって救われるのではありません。キリストに真に身を捧げることによって救われるのです。イエスが与えてくださった救いを受け入れることで救われ、こうして私たちは教会の真の一員となるのです。

これは私たちが理解する必要があることです。なぜなら、アドベンチストの考え方が制度化されつつあることが、これまでも起こりつつあり、そしてますます懸念されるようになっているからです。私はかつて刑務所で働いていました。受刑者や人が長期間刑務所に収監されると、彼らは制度化されてしまいます。なぜなら、施設が食事、水、医薬品、寝る場所、安全など、すべてを提供してくれるからです。ですから、刑務所を出ると、これらすべての責任を負わされるようになるため、大きなショックを受けることがあります。

そして、アドベンチストが制度化され、教会は組織そのものだと思い込んでいるのに、実際にはそうではないということが起こっていると私は考えています。


組織とは教会ではありません。教会とは、キリストを中心とし、キリストが教会を築き上げる人々です。それが教会です組織は教会の道具ですが、教会を包含するものではありません。このように考え、組織が教会を包含すると信じている唯一の組織は、ローマ・カトリック教会です。彼らは、教会は指導者であり、指導者と一致する人々であると信じています。しかし、それは神がご自分の民を置かれた方法ではありません。私たちが持つべき考え方ではありません。私たちは、キリストの体とは、キリストの真の、忠実な魂である人々であることを認識すべきです。それがキリストの体です。そして、終わりの時に、キリストの体は極めて明白になります。


神の真の教会とは誰でしょうか?聖書にはこう書いてあります。「ここに聖徒たちの忍耐がある。ここに神の戒めとイエスへの信仰を守る者たちがいる。」誰が主から出た者で、誰がそうでないのかは、非常に明白になります。


今、世界は混ざり合っており、私たちもいわば混ざり合っています。

神の戒めを守らず、キリスト、イエスの信仰を持たない者たちは、それを持つ者たちと混ざり合っています。しかし、これらのグループが分離される時が来ます。そして、すでに来ています。これが真の教会です。彼らは神の戒めを守り、イエスの信仰を持っています。それ以下のものは神の教会ではありません。どんな信仰を唱えていようと、どんな組織的な好みや優位性を持っていようと、それは問題ではありません。神の戒めを守らず、イエスの信仰を持たないなら、私たちは神の真の教会の一部ではありません。


終末の時代の教会はどのようなものになるのでしょうか?

私たちには手がかりがあります。心を新たにし、真理を教えられたいと願う人は、ペンテコステの日とその直後の初期の教会の歴史を研究してください。使徒行伝で、パウロや他の使徒たちの経験を注意深く研究してください。現代の神の民も同様の経験を経なければなりません。その通りです。初代教会の出来事は、現代の文脈において繰り返されるのです。


使徒行伝の中で、当時の教会はバプテスマのヨハネがもたらした信仰による義のメッセージを受け入れたでしょうか?

当時の教会は、イエスがもたらした悔い改めとメシアへの立ち返りのメッセージに心を開いていたでしょうか?

当時の教会は、真理を教える者の弟子たちを両手を広げて受け入れたでしょうか?


いいえ、そうではありませんでした。全くそうではありませんでした。そして、これは時が経つにつれて、ますます大きな証拠とともに繰り返されており、これまでも繰り返されてきたし、これからも繰り返されるでしょう。使徒行伝は、これから何が起こるかを告げています。それについては後ほど詳しく見ていきます。


教会は何から成り立っているのでしょうか?

教会は、イエス・キリストによる救いという共通の信仰と実践の基盤の上に、互いに結びついた信者たちによって構成されています。教会は「召された者たち」であり、「召された物」や「召された組織」ではありません。

神は組織を教会に召されるのではありません。組織は教会に仕えるために存在します。

人々は、現代の真理の下に集まるように召されています。


イエスが来られた当時の現代の真理は、彼がメシヤであり、イスラエルに救いをもたらすということでした。当時の組織はそのメッセージを拒否しました。彼らは信仰による義のメッセージを拒否しました。私たちの歴史をセブンスデーアドベンチストとして見れば、組織がイエス・キリストへの信仰による恵みによる救いのメッセージ、すなわち私たちの義であるキリストのメッセージを拒否したことがわかっています。彼らは神からメッセージを拒否しました。


そして私たちが今もまだここにいるということは、教会の制度が当時与えられた信仰による義のメッセージを受け入れなかったために、教会の制度が真のメッセージから離れ、今もなおその状態にあるということです。これは、深刻な問題です。

もし受け入れられていたら、キリストはとっくの昔に来られていたのです。ホワイト姉妹もこのことについて触れていました。これについては後ほど詳しく研究します。しかし、私たちは、召された者たちと言っておけば十分でしょう。


さまざまな教会から召され、アドベンチストになりましたが、それは組織と繋がるためではなく、キリスト及び、共にキリストに従う人々と繋がるためです。ある意味では、組織の一員ではありますが、神の恵みによって、自分や皆さんの名前が記されるべき真の書物は、天の書物、天にある書物です。そして、それが最も重要なことなのです。天の御国に入るために召された者たちの名前が記されています。


では、教会では何をしましたか? 

彼らは必要に応じて互いに財産を分かち合いました。これは自発的な行為です。強制されたものではありません。強制されるような共通善ではありません。つまり、他人が自分のものを奪うことを許されるような共通善ではありません。これは彼らが自発的に与えたものであり、与えたくないのであれば、強制されるものではありません。


意志の自由と良心の自由もその一部です。彼らは毎日礼拝に集まりました。そうです。教会は非常に社交的でした。イエスが与えてくださった救いにとても幸せだったので、毎日集まって神を礼拝し、主を賛美しました。これは彼らが聖霊に満たされていたからです。彼らは主を賛美し、聖霊を持っていました。そして、これらの人々は一つになりました。彼らは召し出された者たちであり、互いに一つでした。こうして、人々が分かち合う喜びを見たことで、教会も広まりました。彼らは共に食事をしました。ただ賛美と礼拝をするだけでなく、共に食事や社交を共にしたのです。教会はキリストのもとに団結した場所であり、キリストの愛が全員に浸透し、皆が一緒にいることを愛していました。


彼らは心を一つにして結ばれていました。つまり、共通の目的を持っていたのです。それは単に祝宴を開くためだけではありませんでした。神を賛美し、礼拝し、そして神の言葉を広めるために集まることでした。彼らは日々成長を経験していたのです。


新約聖書時代の教会はどこで礼拝していたのでしょうか?

これは、教会、教会の原則、彼らの行動、彼らの在り方、そして彼らがどこで礼拝していたかを理解した後の話です。なぜなら、これが肝心だからです。

彼らはなぜそのような状態だったのでしょうか?

教会がそのような状態になった理由の一つは、彼らが礼拝していた場所にあります。ですから、初期の教会が歩んできた様々な段階を振り返ると、様々な種類の集会が見られるでしょう。


例えば、エルサレム時代

とでも呼べるでしょうが、彼らは神殿で大規模な集会を開き、小規模なホームグループも持っていました。これは使徒行伝1章から7章に記されていることです。彼らは神殿でよく集まっていました。彼らは神殿に集まっていました。なぜなら、安息日、つまり神の真の安息日である第七日安息日に、教会で正式な礼拝を行っていたからです。安息日が第七日であることをご存じない方は、私の他のビデオもご覧ください。』


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ここまでにします。この続き、すなわち、西暦1世紀の神の民の礼拝の歴史については、

Part2に書きます。



アーメン!!

アクセスありがとうございます。

祝福と憐れみがありますように。












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