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使徒たちはなぜ、どのように立ち直れたか⁉️

  • 執筆者の写真: hosanaministry
    hosanaministry
  • 9月1日
  • 読了時間: 6分
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預言ばかりを追いかけても、品性の改革がなければ、後の雨にも与れず神の印も押されることはありません。そのことには以前から気づいていましたが、よい機会が与えられ、あの翻訳本「サンクチュアリークロス」の研究によって、さらに気づかせていただきました。


使徒たちは、なぜあのように、変革できたのでしょうか。

自分たちがこよなく愛したイエスが十字架で亡くなり、自分たちの企み、自己過信すべてが打ち砕かれました。当局から自分たちも捕縛されてイエスのように殺されるのではないかという恐怖に慄き、士気揚々としていたあの弟子たちは家の中に閉じこもっていました。信仰は失せ、失望と絶望との感情が先にたち、イエスから学んだこともすっかり忘れていました。


三日後、復活されたイエスは、そのような使徒たちの中に立たれ、「安かれ」と言われた。

彼らはどんなにかおどろき喜んだことでしょう。釘の打たれた後を見て、やはり自分たちの主だ!と確信します。


その後、昇天までの40日間、イエスは彼らに濃厚な聖書研究を授けられました。自分たちの体験が預言されていたこと、イエスの三日後の復活によって、信仰の確信が強められ、信仰の錨がやっと得られました。


四十日間、キリストは地上にとどまられて、弟子たちにゆだねられた仕事の準備をさせ、彼らがこれまで理解できていなかったことを説明された主はご自身の来臨のことや、ユダヤ人に拒まれたこと、またご自身の死についての預言のことを語り、これらの預言がことごとく成就してきたことを指摘された。キリストはこの預言の成就こそ、取りも直さず弟子たちのこれからの仕事に、力がさずけられることを確証するものだと理解しなければならないと、彼らに語られた。』(患難上p19)。


これはすべて福音宣明を果たすためでした。イエスは彼らを教え、その使命を果たすための弟子たちに備えられたのです。

弟子たちには性格的な問題がありました。不一致がありました。彼らも現代に生きる私たちと同様何も変わるところはありませんでした。しかし、


贖罪の象徴的な儀式のときには、祭司長は祭司の服を脱ぎ、一般の祭司の白いリンネルの服を着て務めを行った。そこでキリストも王の衣をお脱ぎになり、人間性をまとわれて、祭司としてのご自身を、いけにえとしてささげられた。大祭司が至聖所の儀式をとり行ったあと、待っている会衆の前に祭司服を着て現れたように、キリストは、どんな布さらしでも、それほどに白くすることはできないくらいに真白く輝く衣を着て、再び来られるのである(マルコ九ノ三)。主はご自分の栄光と父の栄光に包まれておいでになり、すべての天使たちの群れが主のあとにつき従うのである。』(同上)


この贖罪の真理を学び、再臨されることを聞いた弟子たちは、喜んだに違いありません。

昇天のあと、弟子たちは、自分たちの不信心を悔い改め、繰り返し繰り返し学んだことを思い起こしました。彼らは謙って、心からの悔い改めをしました。


弟子たちは人々と接するのにふさわしくなるように、また、日常の交わりの中で罪人をキリストに導くような言葉を語るのにふさわしくなるように、とりわけ熱心に祈った意見の不一致や優位を望む心をすべて捨て、クリスチャンの交わりの中で互いに親密になった。彼らは神に近づくにしたがい、ますます、キリストとの密接な交わりを許されたことに、すばらしい特権があるということを悟った。理解力がにぶいために、主が彼らに教えようとされた教訓を悟ることができずに、主を何度も悲しませたことを思い出して、彼らの心も悲しみでいっぱいになった。』(同上31)。


▪️イエスの約束を思い、10日間祈り続けた。どんな祈りをしたのでしょうか。


こうした準備の日々は、深く心をさぐる日々であった。弟子たちは霊的な不足を感じ、救霊の働きをするのにふさわしい者となることができるように、聖油が注がれることを祈り求めた。彼らは自分たちのために祝福を求めたのではない。彼らは魂の救いという重荷を負っていた。弟子たちは、福音が世に宣べ伝えられなければならないことを悟って、キリストが約束された力を求めたのである。』(同上)


まさしく、贖罪日の心を悩ますという聖句そのものです。

*レビ記23:29

28 その日には、どのような仕事もしてはならない。これはあなたがたのために、あなたがたの神、主の前にあがないをなすべき贖罪の日だからである。

29 すべてその日に身を悩まさない者は、民のうちから断たれるであろう。


彼らは(1)自分たちの使命(他の人の魂の救いという使命)を感じ(2)霊的な不足を感じ、(3)救霊の働きをするのに相応しいものとなるため、聖霊が注がれることを祈り求めたのです。それは自分のためではなく、使命のためでした。この時、彼らは福音宣明者として前進したのです‼️


*使徒1:3-5

3 イエスは苦難を受けたのち、自分の生きていることを数々の確かな証拠によって示し、四十日にわたってたびたび彼らに現れて、神の国のことを語られた。

4 そして食事を共にしているとき、彼らにお命じになった、「エルサレムから離れないで、かねてわたしから聞いていた父の約束を待っているがよい。

5 すなわち、ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは間もなく聖霊によって、バプテスマを授けられるであろう」。


こうして、使徒たちはペンテコステの日に、聖霊を受け、世界に福音が広まりました。この使徒たちの絶望からの立ち直りは、もう一つ適用されます。1844年の大失望の時、多くの人は信仰から離れましたが、50名のうち、5名が残りました。彼らは再び聖書に向き合い、祈りは当然のこと、綿密な聖書研究と幻によりました。ハイラム・エドソンという人に天の聖所の幻が与えられたのです。それから、彼らは1844年はイエスがこの地上にこられるのではなく、天の至聖所に入られたことを悟ったのです。こうして、立ち直ることができたのです。


では、現代はどうでしょうか。セブンスデーは、あかしのふみから離れ、日曜休業令は来ない、田舎に移住しなくてもいいよ、などという牧師もいるという・・・・。また預言者でなく神学に頼っています。この現時点の問題において、これを打開するには、弟子たちのこと、また先駆者たちの前例があるので、彼らと同様、聖所に向きあうべきでしょう。


ヘブル書には、「アベルの血よりも力強く語る」血(ヘブル12:24)、「神の子らに残されている安息」(4:9)、「たましいを安全にし不動にする錨であり、かつ幕内に入りゆかせる」祝福された希望(6:19)こういった聖所の贖罪に関する真理の重要な動機づけ、信仰の確信となる言葉が含まれています。ヘブル書の研究はおすすめです。


この霊的堕落のラオデキヤ病にあって、病気からの回復を願うなら、祈りとたゆまぬ聖書の学び、そして悔い改めです。贖罪日の聖句にある通り、今は人類歴史最後の大贖罪日です。

使徒たちから、また先駆者たちからの前例から学びよく理解することです。また、

私たちには、福音宣明の使命があることを忘れないようにしましょう





アーメン!!

アクセスありがとうございます。

祝福と憐れみがありますように。















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