聖霊とは誰か(3)ー3. 霊とは心 の続き
- hosanaministry

- 8月21日
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更新日:8月23日

霊とは心の続き
⚫️ 「神の霊/心対人間の霊/心」
神の霊と人間の霊は、ある点で互いに匹敵しますが、それぞれの霊のすべての側面は、当然、等しく似ているわけではありません。なぜなら、私たちは単なる被造物だからです。それにもかかわらず、人間は神に似せて造られたので、私たちは人間の霊を見ることで神の霊について何かを学ぶことができます。
『アダムが創造主の手から生まれた時、彼は肉体、精神、そして霊的な性質において、創造主に似せて造られました。『神はご自身のかたちに人を創造された』(創世記 1:27)そして、神の目的は、人が長生きするほどに、より完全にこのかたちを現し、創造主の栄光をより完全に反映することであったのです。{Ed 15.1}(教育)』
『人は外見においても性格においても神の似姿を持つべきであった。キリストのみが父なる神の『完全な似姿』(ヘブル人への手紙1章3節)である。しかし、人は神の似姿に造られた」(45ページ)と述べ、アダムについて「その心と体は神自身の似姿に創造された」と語られた。(1901年1月31日、YI)』
ここで、人間の「霊的性質」は「創造主に似ている」と教えられています。なぜこれが重要なのでしょうか。人間の霊的性質を理解することで、神の霊的性質(私たちに啓示されている範囲で)についてある程度知ることができるからです。アダムが神に似た形をしていたように、アダムもまた霊的性質を持つように創造されました。これは神が霊、つまり理性、思考、そして自我を持つ心を持っているのと同じです。類似点がある一方で、神の霊と私たちの霊の間には、神が神聖であり、私たちが単なる人間であるという点で、重要な違いがあります。つまり、神の霊は神の肉体の個性の外部で遍在的に作用できるのに対し、人間の霊は自身の肉体に限定されているということです。
*1コリント2:10-11
10 そして、それを神は、御霊によってわたしたちに啓示して下さったのである。御霊はすべてのものをきわめ、神の深みまでもきわめるのだからである。
11 いったい、人間の思いは、その内にある人間の霊以外に、だれが知っていようか。それと同じように神の思いも、神の御霊以外には、知るものはない。
三位一体論者の中には、この聖句を聖霊が独自の心を持っていることを証明し、実証するもう一つの例と捉え、聖霊は父なる神と子なる神と変わらない独立した存在であると結論づける人もいます。
質問1:パウロが「御霊はすべてのものをみきわめ、神の深みまでもきわめる」と述べたのはどういう意味でしょうか。パウロは、聖霊は神の心を探る別の存在であり、全く別の存在である、と言っているのでしょうか。
質問2:パウロは「人間の思いは、その内にある人間の霊以外に、だれが知っていようか。」と述べたとき、何を意味していたのでしょうか。
さらなる質問:人の霊は自分の思いを探ることができるのでしょうか。そして、人の霊はどのようにして人の心を知るのでしょうか。
ダビデが「主の御業」について思いを巡らせていたとき、ダビデ自身の霊がどのように自分の心を「熱心に探った」のかを見てみましょう。
*詩篇77:6-11
6 わたしは夜、わが心と親しく語り、深く思うてわが魂を探り、言う、
7 「主はとこしえにわれらを捨てられるであろうか。ふたたび、めぐみを施されないであろうか。
8 そのいつくしみはとこしえに絶え、その約束は世々ながくすたれるであろうか。
9 神は恵みを施すことを忘れ、怒りをもってそのあわれみを閉じられたであろうか」と。[セラ
10 その時わたしは言う、「わたしの悲しみはいと高き者の右の手が変ったことである」と。
11 わたしは主のみわざを思い起す。わたしは、いにしえからのあなたのくすしきみわざを思いいだす。
ここで、ダビデは自分の心と交わり、ダビデ自身の霊が自分の心/思いを「熱心に探り求めた」(英文聖書)ことがわかります。
ダビデの霊は彼自身とは別個の存在であり、自分の心の奥底を探り求めていたのでしょうか?もちろん違います!ですから、人の霊はその人に属し、その人の人格の不可欠な部分でありながら、一見その人自身から独立しているように見えても、自分の心を探求することができるということに同意できます。
ですから、パウロがコリント人への第一の手紙2章11節(「人のことを知る者は、人の内にある霊以外にはいない」)で言っているのは、人の霊はその人の持ち主を知っており、その人の考えを探り、記憶し、その人の心にあるものを知っているということです。ですから、人の「霊」は誰よりも自分自身のことをよく知っているのです。
さて、パウロが神の霊と人の霊をどのように比較しているかを見てみましょう。「人の心を知る人は、人の内にある霊以外にはいないでしょう。同じように、神の心も、御霊以外には、だれも知りません。御霊だけが知るのです。」(1コリント 2:11)(英文聖書)
パウロは「同じように」と言っていますが、これはつまり、人の霊が人の心を知るのと同じように、神の御霊もまた、ご自身の思いを探り、御霊の心にあるものを知るということです。神ご自身以外には、誰も知りません(共有されない限り)。…ですから、御霊は別の人格ではなく、神ご自身の御霊なのです。
*ヨブ32:8
8 しかし人のうちには霊があり、/全能者の息が人に悟りを与える。
類似点はあるものの、違いもあることを改めて認識させられます。結局のところ、私たちは神の霊と人の霊を比較しているのです。主な違いは、人の霊は「人の内にある」と言われるのに対し、神の霊は特定の場所に限定されないということです。神は確かに、ご自身の霊をご自身の臨在、影響力、力としてご自身の外にまで広げ、ご自身の領域を超えて変化を起こすことができます。
ですから、私たちの霊とは何かを理解するためには、聖書が人の霊について何と言っているかをさらに深く考える必要があります。
◾️聖書では、私たちの霊は次のように表現されています。:
私たちの知性(エペソ4:23、ピリピ1:27)、私たちの心(詩篇34:18、51:10、17、77:6、78:8、エゼキエル36:26)、そして私たちの命/息(イザヤ38:16。ヨブ27:3、黙示録11:11も参照)。聖書が述べているように、人の霊とは、その人の人格、性格、そして生命の本質なのです。
◾️神の霊は、次のようにも表現されています。:
神の心(イザヤ書40:13と、パウロが引用しているローマ人への手紙11:34、コリント人への第一の手紙2:16を比較してください)そして命(創世記2:7、ヨブ記27:3、33:4、ヨハネによる福音書6:63、ローマ人への手紙8:10、黙示録11:11)です。
ー[神の心]
*イザヤ40:13 だれが、主の霊を導き、その相談役となって主を教えたか。
*ロマ11:34 「だれが、主の心を知っていたか。だれが、主の計画にあずかったか。
*1コリ2:16 「だれが主の思いを知って、彼を教えることができようか」。しかし、わたしたちはキリストの思いを持っている。
ー[命]
*創世2:7 主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。
*ヨブ27:3 わたしの息がわたしのうちにあり、/神の息がわたしの鼻にある間、
*同33:4 神の霊はわたしを造り、/全能者の息はわたしを生かす。
*ヨハネ6:63 人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である。
*ロマ8:10 もし、キリストがあなたがたの内におられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊は義のゆえに生きているのである。
*黙示録11:11 三日半の後、いのちの息が、神から出て彼らの中にはいり、そして、彼らが立ち上がったので、それを見た人々は非常な恐怖に襲われた。
ですから、これまでのところ、この仮説は成り立っていることがわかります。聖霊には人格があるとよく言われますが、人の霊と神の霊は人格を持っています。人の霊が人の一部であり、別個の存在ではないように、神の霊も同じであるに違いありません。しかし、聖書では人の霊と神の霊の間に大きな違いがあります。神の霊は人の霊のように「人の中にある」のではありません。神の霊は、神の肉体とは別に存在することができます。したがって、神の霊は神の臨在とも同義です。
私たちは聖霊の働きや方法をすべて知ることはできませんが、聖書は聖霊が神の一部であり、ほとんど目に見えない方法で風のように働き、どこにでも存在することができる神の神秘的な部分であることを明確にしています。
⚫️ 悩む霊?
もう一度言いますが、人の霊は人とは異なる個体なのでしょうか?
「ネブカデネザルの治世の第二年に、ネブカデネザルは夢を見、そのために心に思い悩んで眠ることができなかった。」(ダニエル書 2:1)
質問:ここで悩まされていたのは誰でしょうか?王自身でしょうか、それとも他の誰かでしょうか?間違いなく王です。
悩まされていたのは、王自身の霊、つまり彼の心でした。明らかに、ネブカデネザル王の霊は、ネブカデネザル王自身とは全く異なる個体ではありません!
⚫️ 私たちが「神のかたち」に創造されたということは、神の霊について何を教えてくれるのでしょうか?
これは、セブンスデー・アドベンチスト派の人間に関する「死者の状態」の典型的な教えです。
「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。」創世記 2:7
体 + 霊 = 生きた魂/存在
ですから、神がご自身(そして御子)のかたちに人を創造し、神とキリストが共に形/体を持っていることを知っていれば、神の霊の存在に異論を唱える人はいないでしょう。したがって、次のように結論づけることができます。
神の体/形 + 神の霊 = 神の存在(全人格)
「アダムが創造主の手から生まれたとき、彼は肉体、精神、そして霊的な性質において、創造主に似せて造られました。『神は人を御自身のかたちに創造された』(創世記 1:27)そして、神の意図は、人が長く生きれば生きるほど、より完全にこのかたちを現し、創造主の栄光をより完全に反映することでした。{エド 15:1}
「人は外見においても性格においても、神のかたちに似せて造られなければなりませんでした。キリストだけが父なる神の『完全なかたち』(ヘブル人への手紙 1:3)です。しかし、人は神に似せて造られました」(45ページ)そして、アダムは「心と体が神自身のかたちに創造された」(YI 1901年1月31日)と述べています。
では、今日はこれくらいで終わります。
まだ、asitreads.comの記事は続いています。大切なことなので、少しずつ小分けして
翻訳を続けてたいと思います。
アーメン!!
アクセスありがとうございます。
祝福と憐れみがありますように。




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