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ラオデキアの真のタイミング⁉️ Part1

  • 執筆者の写真: hosanaministry
    hosanaministry
  • 6月13日
  • 読了時間: 6分

更新日:6月14日


1844年がラオデキアの教会のスタートと叫ばれて久しい。

教会へ通い、少しずつ教会の現実を見るにつけ、何か教会はおかしいと気づき、なぜだろう、素晴らしい教理を教えられているのに・・・と学びを愛する人ならば、必ず感じる通過点でありましょう。先輩の兄弟姉妹に、どうして教会はこんなに伝道もしないし、元気がなのですか、と尋ねると、「ラオデキアだから」の一言で終わってしまいます。随分前の話ですが、沖縄の金城牧師にメールで教会の残念な現状について、お尋ねしたことがあったのです。すると「ラオデキアだから」の一言のお返事でした。


ところが、本当にそうなのだろうか、と疑ってみる必要があるかもしれません。

キリストが黙示録で語っておられる七つの教会の中で、ラオデキヤは、生ぬるいために吐き出すと言われています。残りの民をそのようにされるのでしょうか? 

残りの民は、キリストにあって勝利する民なのに? 黙示録3:15以降を読むと、確かにラオデキヤ教会には勧告と警告を伝えられています。このみ言葉の真のイエスの目的は、悔い改めです。

前回ご紹介した、英文サイトからです。


初期のSDAの土台となったパイオニアたちは、後代に生きる私たちのために、たくさんのメッセージを残してくれています。当初から現況のような教会になることはわかっていたからです。EGホワイトは神からの権限を与えられていました。しかしながら、当時もそうであったように、現代の教会も彼女を退けています。1888年のミネアポリスでの世界総会で、キリストの義のメッセージが退けられたように、です。それは神を退けたことになります。真の残りの民として生き残るためには、何が偽りで何が真理かを見分ける仕事が残っているのではないでしょうか。


このラオデキアの記事を読んで、驚きました。聖書とあかしのふみをもっと掘り下げなくては真理は見えません。教えられた通りに信じてしまうことは、大事なことですが、自分で確かめることもやらなければならないのではないかと、この機会を与えてくださった神に感謝します。


長いので、すこしずつ掲載していきます。今日はPart1のみです。


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Part1 はじめに:フィラデルフィアからラオデキアへの移行の見直し。

「セブンスデー・アドベンチスト教会が採用している歴史的枠組みにおいて、黙示録に登場する七つの教会は、キリスト教史の連続的な段階を象徴しています。この預言的なパノラマにおいて、フィラデルフィア教会は、忠実さと従順さを特徴とする霊的な活力と期待の時代を体現し、ラオデキア教会は、霊的な自己欺瞞、生ぬるさ、そして切実な悔い改めの必要性という、後の時代の典型を表しています。


神学校の教室で一般的に教えられ、公式文献にも掲載されている現代の解釈は、C・マーヴィン・マクスウェルが『神は気にかけておられる、(God Care)』第2巻で提唱したモデルに従うことが多いです。マクスウェルの広く受け入れられている図式によれば、1844年はフィラデルフィア時代の終焉とラオデキアの発足の年です。彼は、初期の再臨信者たちの精神的な熱意を認めながらも、まさにこの時代が「キリストのない宗教性、(“Christless religiosity.”)」への危険な流れに道を譲ったとも主張している。」

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つまり、黙示録の3章の七つの教会について、教会の歴史的推移を示したもので、

1844年が、フィラデルフィアからラオデキアに移行した節目であるということですね。

これは教会で私たちが学んだ事柄です。この解釈をしたのは、C.M.マクスウェル。ところが、これ以降は、キリストなしのキリスト教的時代になったということで、教会の現状をみればわかる、ということです。


以下は、マクスウェルの解釈の紹介です。

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 「7. ラオデキア、1844年~。しかし今、私たちは失望に直面しています。フィラデルフィア時代の後、ラオデキアがやって来ます。兄弟愛の美しさは、生ぬるさと傲慢さに取って代わられました。フィラデルフィア時代に、イエスは「わたしはすぐに来る」と宣言されました(黙示録3章11節)。イエスはすぐに来られますが、その約束にもかかわらず、教会は背を向けます。ここでは、ラオデキアの教義的信条について、直接的にも間接的にも何も述べられていません。キリストが注意を喚起しようとしている問題は、さらに根本的な、根深い態度の問題です…」—C・マーヴィン・マクスウェル著『神は気にかけている』第2巻、131ページ」


「マクスウェルはラオデキアの霊的危機を正しく強調しているが、彼の時系列は厄介な神学的パラドックス(逆説)を提起している。それは、キリストが明確に非難する霊的状態の中に、残りの教会のアイデンティティを埋め込んでいるということである。この見解によれば、世界への最後の警告を宣べ伝える任務を負ったアドベンチスト教会は、生まれつき生ぬるく盲目であったということになる。これは、その預言的信憑性と霊的権威を揺るがす考え方である。


本研究は、この仮定に異議を唱える1844年はラオデキアへの陥落ではなく、フィラデルフィアの興隆、すなわち聖所のメッセージ霊的奉献、そして神の承認に基づく預言的な復興の始まりであると主張する。ラオデキアの状態は、大失望と同時に到来したのではなく、妥協と自己満足が広がる中で、その後数十年にわたって徐々に現れてきたのである。」


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私としては、この意義に拍手を送りたい。なぜなら、1844は確かに彼らの解釈の誤りによって大失望を味わったかもしれませんが、一方で、キリストが天の聖所には入られた輝かしい年でした。納得のいく見解に私の霊は喜んでいます。ジョン・ポーリーン博士でさえも、この部分に意義を唱えることなく、マクスウェルの解釈を受け入れていました。黙示録講解を学びましたが、何を言いたいのかよくわかりませんでした。


次は、この論文の構成の説明です。

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「この主張を裏付けるために、本論文は次の 4 つの部分から構成されています。


  1. まず、エレン・G・ホワイトの著作と初期の開拓者たちの証言を用いて、1844年をフィラデルフィア時代の始まりと位置づけます。


  2. 次に、1873年に初めて警告され、1898年に預言的に診断されたラオデキアの状況の発展を辿ります。


  3. ラオデキアの解釈学を反映する、19世紀後半から20世紀初頭にかけての神学上の変遷ジョージ・R・ナイトによる再解釈も含む)を評価します。


  4. 最後に、フィラデルフィアの信仰と熱意を取り戻すよう呼びかけ、残りの民に託された、聖所を中心とした聖霊に導かれた宣教への回帰を促します。


ラオデキアのメッセージは預言的な出発点ではなく、警告です。1844年の至聖所の開放をラオデキアの出現と誤解することは、黙示録の時系列を逆転させ、残りの教会の真の姿を覆い隠すことです。フィラデルフィアの霊的な経験を取り戻すことによってのみ、アドベンチスト教会は終末期の使命を力強く明確に果たすことができます。」

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拍手を送りたい‼️

今後の学びが非常に楽しみです。

Part1はここで終わりです。Part2をお楽しみに。Part2&Part3は、上記、4つの内容の、

第一番目になります。


アーメン!!

アクセスありがとうございます。

祝福と憐れみがありますように。













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